災害が起こって命の危機を感じた時、家族全員の安全を考えない人はほとんど居ないと思います。
もちろん動物を家族だと思う人々にとっては、その家族である動物の安全を考えることはごく当たり前の事です。
言い方は悪いかもしれません。
誤解を恐れずにはっきり申しますと、普段からうざ絡みされて辟易している赤の他人の近所のおじさんと、家族として一緒に暮らして来た犬とが、心情的にどちらが大切かというと、家族である犬です。
「人間が飲む水もないのに犬に水を飲ませるとは!」
という思い方があるのならば、
「うちの犬に飲ませる水もないのに、あんなに周りに迷惑ばっかりかけるおじさんに水を飲ませるなんて」
という思い方も当然あるのです。
しかし、世間的には当然、おじさんの方が優先されます。
ここが人間社会だからです。
おじさんは人間で、我がコは犬だからです。
そして犬と暮らす人間の中でもルールを守る人たちが泣く泣く人間社会のルールに合わせ、大事な家族との別れを余儀なくされたり、共に危険な目にあったりするのです。
未曾有の大災害「東日本大震災」が起こってからもう少しで10年経とうとしています。
あの頃のまぐろさんはまだ元気で自分でなんでもできる犬でした。
あれから10年に近く経ち、まぐろさんは年老いて、母ちゃんが居なければごはんも食べられません。
まだ元気なまぐろさんとの避難について、母ちゃんも何も考えなかったわけではありませんが、あれほど人間と暮らす動物が災害にあったときに困る事態が起こったのだから、何か変わるだろうと呑気に考えていました。
この10年で、災害時における動物と人間の避難における状況は何が変わったのでしょうか。
「同行避難を推奨する」と言いながら、その実は何も変わっていません。
危険な自宅から避難所に避難しても、動物を危険に晒すことの解決は何もつかず、飼い主さんは路頭に迷う。
「東日本大震災」の時に見聞きして感じたことは、今回の台風19号において全く変化がないことが露呈しました。
10年です。
この10年、いったい何が進んだのかと言わざるを得ません。
まぐろさんは完全介護です。
ごはんを食べるのも、排泄も、母ちゃんの手がないとできません。
避難所で、外の駐車場やグラウンドに連れて行かれ、母ちゃんと離れ離れで過ごすことになったら、それは「死」を意味します。
せっかく、世間の人々がいう「命を守る行動」をとっても、その先にあるのは命の危機です。
ウチにいれば、ごはんをあげたり排泄介助をしたり、母ちゃんはまぐろさんの「命を守る行動」ができますが、避難所でそれが叶わないのならば、ウチでまぐろさんと過ごすことが、母ちゃんにとっての「命を守る行動」になります。
例えば、避難をして、自らが大切な家族である動物の命を守ることができなかった場合、その後悔の念に苛まれて、精神的に押し潰される方々も少なからず居ると思います。
自衛隊や消防や警察の方、ボランティアの方々が自分以外の命を救うために、命がけで活動されているのと、自分の家族である動物を命がけで守ろうとする行動。
我が子供を親が命がけで守ろうとする行動と子供として大切に育ててきた動物の命を守ろうとする行動。
これは当人でないとわからないかもしれませんが、感覚的には全く変わりがありません。
それなのに、何故、「犬と共に避難できる場所」の確保が未だ遅々として進まないのか。
タバコの分煙はこれほどに進んだのに、なぜ、「動物と逃げたい人のためと避難所」と「アレルギーがあったり、動物が苦手な人のための避難所」を分けることができないのか。
なぜ、避難所は「ひとつ」でないといけないのか。
我々は、次の大災害に見舞われる前に、その本質について考え、議論していかなければならないと思います。