私は相棒と胸を張って言える愛犬を亡くして途方に暮れている。
たぶん、私の心を充分に満足させるには「もう一度会いたい」という欲求を満足させる必要がある。
だがそれは現実的に不可能だ。
現実的に不可能であるからこそ、途方に暮れるのだ。
愛犬を亡くした悲しみは理屈ではなくもっと心の奥のほうから来るもので、だからこそそれを癒すためには、方法が現実的である必要など微塵もない。
愛犬を亡くし心の隙間を埋められない人にとても読んで欲しい作品がある。
この作品は、これ以上ないほどの絶望にわずかな一筋の光を与えてくれるからだ。
なぜだろうか、とても現実的ではない作品なのに、読了した私はとても期待している。
「きっと、また会える」
愛犬を亡くした恋人への優しさから生まれた作品
愛犬を亡くした後の喪失感の重さは、経験した事がある人ならば誰しも納得するだろう。
野良犬トビーの愛すべき転生の著者であるW. Bruce Cameron - Wikipediaの恋人もこの喪失感の重さに潰されそうになっていたそうだ。
キャメロン氏はその深い心の傷から恋人をなんとか救い出したかった。
とても幸いなことに、彼はユーモリストであり、作家だった。
この事実は彼の大切な恋人だけでなく、愛犬を亡くした喪失感に喘ぐ我々すべての人間にとっての幸運である。
彼はユーモラスな自己啓発コラムを執筆していたし、ユーモアと物語で、彼の恋人を元気づける術を持っていた。
彼は頭に浮かんだその物語を、運転中、助手席に座る大切な恋人に語って聞かせたそうだ。
W.ブルース.キャメロン氏の恋人は、彼女のように愛犬を亡くして喘ぐ我々のような人間が多く居ることを知っていた。
そして、その物語によって、自分だけでなく、世のペットロスに喘ぐ人々の多くが救われるべきだと彼に力説した。
かくして、私の愛すべき蔵書となる
野良犬トビーの愛すべき転生 (新潮文庫)が生まれることになったのである。
私はこのエピソードが大好きで、私自身もまた、キャメロン氏の恋人と同様、同じような境遇の人々にこの作品が届き、私のように少しでも心が上向きになることを望む。
私は、幸いこのブログを運営しているし、このブログには犬を飼う人、老犬と暮らす人、介護をする人が集まっている。
ここでこの作品を紹介することで、犬と暮らすという事の素晴らしさが多くの人に伝わり、犬と暮らしてきた人の愛犬を亡くしたことによる喪失感が少しでも和らぐことを願う。
愛犬との絆は不滅
この作品はすでに映像化もされ、僕のワンダフル・ライフ というタイトルで公開された映画の方は、犬好きなら既にご存知の方も多いかと思う。
逆に言えば野良犬トビーの愛すべき転生 は僕のワンダフル・ライフ の原作なのである。
かの映画をご覧になった方はここでひとつ疑問に思うかもしれない。
なぜ、犬の名がベイリーではなくトビーなのかという事だ。
実は主人公であるこの犬はベイリーとして生まれる前に野犬として生を受け、トビーという名前を貰っている。
物語は、この主人公がトビーという野犬として生を受けた記憶からはじまる。
だから「野良犬トビーの」なのである。
野犬である母犬の元に生まれたトビーは、人間に捕獲され、兄弟たちや保護犬と共にシェルターらしき場所に運ばれる。
らしきと記すのは作中でそれが明らかになる事はついぞないからだ。
この物語は、常にトビーの一人称視点で描かれていく。
犬であるトビーにはそこがどんな場所なのかはわからない。
これが小説の面白いところで、映像作品ではないので、犬の視点からかかれているその場所を、我々読み手は頭の中で思い描きながら読み進めることになるのだ。
そこには保護施設の現状も犬目線で描かれているし、繁殖屋の事も犬目線でかかれている。
けれどもそれはあくまで犬目線なので、はっきりと書かれているわけではない。
そこに描かれる悲劇や泥臭さの感じ方は我々読み手の経験や知識に委ねられるのである。
これがこの小説の醍醐味だ。
野犬のトビーは殺処分された後、繁殖屋の元に転生する。
それから死ぬような目にあったところを助けられ出会ったのが、トビーが相棒と決めたイーサンという少年だった。
トビーであった頃から、彼はずっと自分の生まれて来た意味を考え、転生を繰り返すうち、彼は次第に、「イーサンのために生まれて来たんだ!」と確信するようになる。
これが、この物語の核心で、愛犬を相棒としてともに暮らしたことがある人ならば、誰しもが経験した感覚であろうと思う。
犬は自分の相棒である人間のために生きる。
そして飼い主さんのほうも強くそれを望む。
生を全うしたベイリーは何度も生まれ変わる。
イーサンともう一度出会うために、トビーは転生した犬の人生を必死で生きる。
そしてついにイーサンの元に帰ってくるのである。
愛犬との絆がしっかりと結ばれていれば、愛犬は転生し、また私に出会うためにどこかで必死に生きている。
私は割と現実主義ではあるが、何故だかこの作品を読んでいるうちに、そう思えるようになった。
愛犬とはきっとまた会える
この作品が私の「もう一度会いたい」という気持ちに期待を抱かせるためには、「もしも」という言葉がとても重要になる。
幸いなことに、私は懐疑主義者ではないし、どちらかと言えばロマンを信じている。
この掌に乗る小さな世界を閉じた時、広げる前とは違った感覚が私の中に広がっていた。
もう一度会いたい。
その気持ちに光をもたらす方法は昔から色々試されてきたが、私にはどれもピンと来なかった。
うちの愛犬は、例えば、虹の橋のたもとで私の迎えを待つなんて悠長な事はしないだろう。
また再び私の相棒になるために、別の犬に転生し、前より幸せになるための学習をしているに違いない。
であるならば、それを待つ私にできる事は、彼女がまた再び私を見つけ、全速力で駆け寄ってくる日のために、前より少しでも良い飼い主になる努力をする事だ。
今までたくさんの犬と暮らして来たが、いつでも世界一が更新される。
お互いに成長し、世界一の相棒になってから手を取りあって天国に行くのだ。
その世界観が私の中にはっきりと生まれた。
愛犬がどこかでまた私に会った時、前より素晴らしい犬になる勉強をしているのならば、私もより良い飼い主になっておく努力をしよう。
お互いに世界一の相棒になるために。
きっとまた会える。