今までたくさんの動物と暮らして来ました。
それは同時にたくさんの死と向き合ったということです。
それもあってか、まぐろさんと暮らす前までは、「私はペットロスにならない」という謎の自信を漠然と持っていました。
いつからでしょうか。
明るい陽の光をたくさん浴びた私とまぐろさんの日常生活の中に、薄らと夜の闇が入り込むように、「まぐろさんが居なくなったら?」という恐怖が、時折私をおそうようになりました。
そして、それが現実になって、私自身、想像と違う自分にとても驚いています。
まぐろさんが居なくなったら?ということにまぐろさんの生前に応えが出たことはありません。
本当にどうなるかはわからなかった。
今、私は普通に毎日を送っています。
けれども言葉にするとものすごくあっさりとしてしまう「喪失感」というものは、想像していたものとか知っていたものとは全然違っていました。
時間によって変化する存在感
何かを失ったり、さよならした時の悲しみはいつも時間が解決してくれました。
もちろん「喪失感」もそうです。
私は比較的、人生とは得て失うものだと思っています。
だから、あまりモノや人間関係に執着があるほうではありません。
いつまでも変わらないモノなどほとんどなく、人の「思い」さえも変化するものです。
私の手の中にある間は、全力で守るのですが、自分の意思で飛び去ったものに対しては恨みもなければ、追いすがる事も無いほうです。
そうやって生きて来ましたし、そういう死生観を持っているのだと思います。
そう、まぐろさんももちろん例外ではなく、時間を追うごとにその存在感の種類は変化しているように思います。
しかし、今までは、「寂しさ」に関して時間が薄れさせ、いつの日か消してくれていたのですが、まぐろさんの居ない4か月ちょっとを過ごして来て、この「寂しさ」の感じ方が今までとはちょっと違うのです。
時間とともに回数は減ったけど
まぐろさんが居なくなって、寂しいと思う回数は時間とともに減っているのは確かです。
今では、まぐろさんの残したものを見て「寂しい」と思う感じですけれども、その濃度がものすごく濃くなっているのです。
まぐろさんのいない日常がふつーに続いている中に、突然、「寂しい」という感情が現れます。
それはとても爆発的です。
ちょっとしたことで突然涙腺を爆破されたかのように泣き出してしまうのです。
今まで毎日感じていたものが、凝縮された感じです。
それが、何故なのか。
どういう理由なのかはわかりません。
「まぐろさんは特別だった」
そう考えるしかありません。
もちろん、今までいっしょに暮らして来た犬も、とても大切な存在でしたが、私の中でまぐろさんは特別だったのでしょう。
居なくなってもなお大切なことを教えてくれる
まぐろさんが居なくなってもなお、犬と暮らした事による気づきは多いのです。
特に、まぐろさんの死を悲しむ回数が減ったこの頃は、居なくなった事により、まぐろさんのメッセージは多く読み取れます。
まぐろさんは犬生全部をかけて私に大切な事をたくさん教えてくれました。
今もなお、それは続いています。
まぐろさんとの関わりのないものは私の周りにはひとつもなく、この世の全てがまぐろさんで溢れています。
まぐろさんが居なくなって寂しい気持ちがなくなる事はないのかもしれません。
それでも私の中にまぐろさんが居る事が、時間が経つごとに、強く感じられるようになりました。
もう一度出会うために
まぐろさんは、白黒ぶちぶちの犬として私の前に現れて私にこの世界の事を色々と教えてくれました。
そして白黒ぶちぶちの犬という姿がなくなった今も私に色々な事を教えてくれています。
これからは、まぐろさんの教えてくれた事を使って私はより良い人生を送らなければなりません。
それがまぐろさんへの恩返しになると思うからです。
そうすれば、まぐろさんが失われることもないし、いつかひょっこり帰ってくるような気がしてならないのです。
これから、私は、もう一度まぐろさんと出会うために生きていくのです。