まぐログ!全力犬暮らし

現在18歳、ご老体ながらに元気に過ごすミックス犬まぐろさんとの生活を通して、老犬との付き合い方、老犬の健康管理などを勉強し、犬の世界の高齢化を幸せに乗り切ろうという記録です。

最強の相棒がいれば人生は最高の冒険だ「野性の呼び声〜寓話と犬と冒険と〜」

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最強の相棒がいれば、人生は最高の冒険だ

まさにその通り。

この春、ディズニーの春映画として公開された野性の呼び声|映画|20世紀スタジオ公式の予告編を観た。

私が小学生の時に読んだ小説の映画化だったからだ。しかも、何故か私はディズニーが手がける映画には反応してしまう。

それに冒頭で紹介したキャッチコピーである。

私が常日頃から言ってることまんまだ。

この映画の予告編を観て、私は原作の小説について思い出した。

その時感じた事は時が流れて整理された状態で未だに頭に残っている。

そして、その事について新たに思うこともたくさんあった。


映画『野性の呼び声』予告【最高の冒険編】2月28日(金)公開

 

100年経っても存在する作品の力強さ

野性の呼び声(新潮文庫)

バックボーンを知っているか知らないかで、作品の印象はことごとく変わる。

この事について学んだのは最近の事かもしれないが、自らのバックボーンによって作品の印象が変わる事は、もう遠い昔から知っている。

そして、印象というものは、時代や人間の学習によっても変化するし、読み手が自ら行うジャンル分けによっても段違いに変わるのだ。

だから私は酷評をするのが苦手だ。

作品を酷評するよりも、自分が良いと思ったものをどのような目線でどのように感じたのかを論じる方が好きだ。

 

ジャック・ロンドンの代表作である野性の呼び声はまさにそういった事が顕著に現れる作品のはずだ。

この作品は、今となってはアメリカ文学の代表作の1つである。

ジャック・ロンドンが書いた作品は、大人のための寓話で、人気のある作品が多い。

ジャック・ロンドンの作品はいくつか読んだのだが、彼の小説はとても古いにも関わらず、古臭い印象を与えない。

最初の作品は「野性の呼び声」で発表されたのは1903年。

最初の映画化は1908年であったらしい。

100年以上前である。びっくり。

100年以上も前に映画化された作品が、2020年に再び映画化されたのである。

時代によって変わる価値観をうまく乗りこなせないとこういった作品にはなり得ない。

野性の呼び声はそういった意味で素晴らしい作品だ。

作品の中にある力強さは時が経っても失われる事はない。

ヒーローズジャーニーを骨にした犬の冒険譚

The Call of the Wild: A novel by Jack London

野性の呼び声 が何度も映画化されるのには理由がある。

この作品の作りが、ハリウッドタイムラインで欠かせないヒーローズジャーニーを踏襲しているからだ。

ハリウッドタイムラインとは映画のヒット作に共通している型のようなもので、ハリウッド映画の多くはこの型に沿って作られると言われる。

それは今始まったことでなく、古くは神話の作りからはじまっているらしい。

そして人々の心を捉えるヒット作は、ヒーローズジャーニー……「英雄の冒険譚」の型を持っているものが多い。
この作品の主人公、犬のバックは英雄(ヒーロー)としての立ち位置を維持し続ける。

 

アメリカののどかな家庭で幸せなペットとして暮らしていたバックは、カナダで起こったゴールドラッシュという時代の流れによってその運命を大きく変えられる。

その時代の雪深い過酷なカナダを金を求めて進むにはそり犬が欠かせず、大きな身体で毛の深い犬はそり犬として高値で取引されていたのだ。

バックはセントバーナードとスコットランド系の牧羊犬のミックスで、そり犬にはぴったりだった。

つまり、生まれた時から自分の意志に関係なく勇者の血を持っているのだ。

その血のせいで誘拐され、そり犬として売られたバックはのどかな何気ない幸せな生活から、過酷な環境に出て行かざるを得なくなる。

勇者が勇者という生まれのために無条件に冒険に出るのと同じである。

そして搬送屋の虐待にあったり、そり犬のリーダーと闘ったりして逞しく賢いそり犬のリーダーとして成長していく。

そして、ソーントンというメンターに出会う。

やがて二人は固い絆で結ばれる相棒となって二人で困難に立ち向かっていく。

それはただの犬の成長記録ではなく、英雄の冒険譚だ。

勇者が困難を乗り越えレベルアップしていくという、私たちの大好きな英雄ファンタジーなのだ。

だから「犬が人間的過ぎる」という評価に反して、作品の人気は上がったし、幼い私の心を捉えたし、100年以上も映画化され続けるのだ。

 

小説の方は、首尾よく金の採掘に成功したソーントンたちが原住民によって襲撃され、自然に魅力を感じて集団から離れていたバックが英雄よろしく帰ってきて原住民を打ち倒し、相棒ソーントンの死を察して森に帰り、原住民から「幽霊犬」と称されて伝説になるところで終わる。

ここに、伝説の犬バックの冒険譚が伝説として完成するのである。

時代は変わり、今回の映画化において、白人至上主義が認められなくなっているので、この辺りの描き方は変わっているだろうと予測できるのだが、果たして私はまだ映画のほうを鑑賞していないので、映画がどうなっているかわわからない。

犬を相棒に持った人だけに付与される感動

さて、英雄の冒険譚として充分に楽しめる「野性の呼び声」だが、我々のように、犬を唯一無二の相棒として持ったものだけに与えられる感動がある。

犬と暮らすものにとって、この小説のほとんどは読み進めるのも辛くなるような過酷な表現が多い。

けれども、バックが相棒として認めたソーントンとの冒険については、我々にしかわからない感動がある。

犬と心を通わせた事があるものにしかわからない気持ちの動きだ。

お互いに信頼しているもの同士でないと感じることのできない感覚が、バックとソーントンのくだりでは行間から直接心に刺さる。

愛犬を亡くして途方に暮れている私からしてみれば、ソーントンの居なくなった人間界に、バックが未練を持たない事はものすごく納得がいく。

そして時々ソーントンが死んだであろう場所にバックが現れることも至極納得がいくのである。

そしてその時のバックの気持ちを慮る時、我が相棒の事を同時に思い出し、心を大きく動かされる。

最強の相棒と過ごす人生はまさに最高の冒険であったし、何をするのもテンションの高いストーリーであったと実感する。

それは、犬を相棒として持ったものにしか許されない最高のおまけである。

動物物語というよりは冒険物語

今回の映画化に当たって、映画を観た方の感想をいくつか読んだのだが、CGによる犬の動きに違和感がある人が多いようだが、この違和感について、個人的には正解だと思っている。

今回、原作の事について語ってきたわけだが、この原作、発表当初の評論で「犬が人間的過ぎる」という評価をいただいているらしい。

そしてそれは、作者ジャック・ロンドンの意図するところで、彼は徹底的にバックに人間的な特徴を持たせたらしいのだ。

この小説は自然主義的な小説ではなく、神話的な英雄の冒険譚であり、その英雄が自然に帰っていくというアメリカ特有の田園文学でもある。

ならば映像作品は、バックは普通の犬ではなく、ドラゴンやユニコーンと同様に、我々の知る犬とは違った神話的な存在としてCGで描かれてもなんら問題はない。

原作者、ジャック・ロンドンに敬意を表するならば、そうであるべきだし、映像化にあたって実際それを狙ったかどうかは別にして、それがこの映画をダメにする要因にはならないと個人的には考えている。

ただ、バックに関しては、犬という生き物があまりに身近なために、違和感を感じるというだけなのだ。

犬は思っているよりも人間らしい

小説の中で犬のバックに徹底的に人間の洞察力や特徴を持たせたジャック・ロンドンであるが、その作品が100年以上経った今、読み返してみると、それほど大きく間違ってはいないと思える。

100年の間に、犬の研究はたくさんされてきたし、その結果、犬という種に対する人間側の思い込みも徐々に訂正されていった。

犬は思っているよりも人間らしい。

それが科学的に証明されつつあるのだ。

犬は人が思っているよりもずっと”人間らしい” | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

犬は飼い主の言葉を理解している、脳研究で判明 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

我々犬と暮らす人間がうすらぼんやりと抱いていた感覚が証明され、犬を擬人化しすぎるな!と目くじらを立てる科学者の人々に気をつかう必要は徐々になくなってきている。

ジャック・ロンドンが真実を知っていたか否かはわからないが、改めてこの作品を読むと、時代がジャック・ロンドンに追いついたのかもしれないと思える。

そして犬たちは「知ってた」と言って笑うのかもしれない。

野性の呼び声(新潮文庫)

野性の呼び声(新潮文庫)