大切な愛犬の命と安全を守りたい。
飼い主さんならば誰しもそう考えているでしょう。
我々が、我が愛すべき相棒の犬と、理想的にかつ幸せに、共に暮らすために、我々飼い主はいったい何ができるのでしょうか。
この人間社会は、相棒の犬たちにとって住みやすい環境なのでしょうか。
犬と飼い主が幸せに暮らすには社会の理解とその理解に基づいた社会のしくみが必要です。
我々と共に暮らすイエイヌやイエネコは、人間といっしょに進化して来た種で、人間の存在を原因として生まれた種と言っても過言ではありません。
人間が自分たちの都合で作り出したのか、当の犬やネコが人間と共に歩む道を選んだのかは諸説ありますが、いずれにせよ、イエイヌにしろイエネコにしろ、人間が居なければ存在できない種だといっても言い過ぎではないでしょう。
それなのに、人間社会において、犬や猫が生きていきやすいかと言われると甚だ疑問です。
動物愛護法は日々更新されて、だいぶ変わったとはいえ、まだまだ満足の行くものではありません。
我々、犬や猫を愛する者として、満足のいかない社会のしくみに対して声を荒げる事はとても簡単ですが、それでは社会のしくみ自体を整理し、変える事はできません。
飼い主自身が犬の事を学習し、犬と生きるという事を理解しないと、社会のしくみは変わらないのです。
そして、残念ながら満足のいくものではありませんが、現在の人間社会のしくみを知らないと、大切な愛犬を守ることはできません。
犬と人間社会のしくみ
我々が愛犬と共に生きているのは、人間社会です。
人間社会のルールに従って生活しなければなりません。
昔から歴史の中で、犬を愛した先人たちは、大切な犬を守るため、様々なルールやマナーを人間社会に形成してきました。
私たちは、その恩恵の上に立って生きています。
人間は人間社会をより豊かで幸せなものにするために色々な努力を重ね、成熟させて来ました。
その中に相棒である犬の生活の質の向上も含まれています。
先進国は、次のステップに進みつつあります。
しかし、日本は他の先進国と比べて、動物愛護に関してはまだまだ遅れていると言わざるを得ません。
法律やルールの問題だけでなく、飼い主自身のモラルや知識不足はもちろんの事こと、専門家のデータや知識の更新の遅れもその原因になっています。
咬む犬の相談で「嫌な事をしたら咬む」といった当たり前の事を相談する飼い主さんがいて、それに対して、昔ながらのしつけで矯正してしまう専門家がまだまだ存在します。
そもそも、嫌な事をしたら犬は咬みます。
嫌だと伝える方法がほかにないのですから。
その「嫌な事」から解決しないと、本当の意味での解決には至りません。
危険だから致し方ないと見過ごされてきた事をなんとか解決に導きたいと思う事は、犬が大好きな人間にとっては、自然な流れではないでしょうか。
動物愛護管理法
犬に関する日本の法律で最も認知度の高いのが「動物愛護及び管理に関する法律」(動物愛護管理法)ではないでしょうか。
動物愛護法として認知されている方も多いかもしれません。
最近ではたびたび改正されるので、触れる機会も多い名称ではないでしょうか。
日本のこの法律は残念ながら、犬たちと幸せに暮らすための法律には程遠く、人間との共生において、その法律で保証されているものの殆どが人間のためのものです。
犬にとっては最低限の事しか保証されていません。
その中でも最も大切な事なのに、守られない事が多い項目は、終生飼養というところです。
終生飼養とは、その動物が命を全うするまで、責任を持って飼養管理するという意味です。
ですから、老犬介護は法律で定められた事でもあるのです。
この法律は、一見すると、皆さんが当たり前に持っている良識によって動物と暮らしていれば、当たり前に守られるであろう事ばかりなのですが、実は近年でも、守られているかどうかが疑わしいところがあります。
それは「基本原則」という最も基礎となるところです。
第二条 動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく、人と動物の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなければならない。
「習性を考慮して適正に取り扱う」
私たちは相棒の習性をどこまで考慮できているでしょうか。
犬や猫は言葉を喋りません。
ですから長きに渡って誤解をされ続けて来ました。
我々が愛する犬という動物は、人間の家族ではありますが、人間ではありません。
所有物占有物としての犬
第四十四条 愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、五年以下の懲役又は五百万円以下の罰金に処する。
動物虐待は犯罪で、きちんと罰則が設けられています。
人間社会の中でこれを重いか軽いかを判断するのはなかなか難しい事ですが、犬と暮らす人にとってはとても軽いと感じる事でしょう。
犬と暮らす人にとっては犬は家族なのですから、当然の事です。
しかし、つい最近まで、この罰則さえもありませんでした。
今でも法律上、愛護動物は所有物占有物という考えが主流です。
社会のしくみでは、犬は、人間の所有物占有物なのです。
犬と暮らす人にとってはなかなか受け入れ難い事実ですが、現状の法律では致し方ありません。
家族としての犬を他の人間に傷つけられたり、命を奪われたりした場合、法律上、飼い主は遺族や家族としては扱われません。
法律の上で、飼い主は、所有者占有者であり、犬は所有物占有物であるのです。
命のある所有物。この言葉に、私はとても違和感を覚えます。
みなさんはどうですか。
愛犬を、所有物占有物として守るのと、家族として守るのは、全く違う感覚ではないですか?
この違和感に関しては、脊髄反射で反論するのではなく、もう少し突っ込んで考えていきたいと思っています。
動物に関する法律が徐々に改正されたように、人々の考えを変えることこそが大切な事ですから。
犬は消費する「もの」なのか
犬が大好きで家族の一員として共に暮らす人間にとって現行の社会のしくみや法律に違和感を覚えるのは、大切な家族である犬が「モノ」として扱われるからです。
動物愛護管理法は改正に改正を重ね、「命ある」と付与され、物品とは区別するように位置づけされましたが、例えば、愛犬が誰かに殺され、飼い主がそれを訴えたとしても、器物破損として処理される事は変わっていません。
社会的に罰則が設けられ、刑罰は受ける事になっても、民事的な処理は器物破損です。
これは、納得できるものではありません。
犬には所有権占有権があると解釈され、それが犬を売り買いする(生体販売する)商売にも繋がっています。
犬に関する日本の法律は、殆どが人間のためのものです。
そして多くが犬と暮らさない人間とのトラブルを避けるためのものです。
そして残りの殆どが、動物を商売として取り扱う業者に対するものです。
犬に対する人間社会のしくみは、犬を消費する商品として取扱っているように感じてなりません。
これを是正するためにはやはり、犬と暮らす人々の意識の向上や、マナーやルールの厳守、他人に迷惑をかけないためのモラルの充足が必要です。
マイクロチップの導入や狂犬病の予防接種などが100%きちんとなされれば、これを利用して飼い犬の人間との戸籍のような関係性を、社会的に管理するシステムも作れるかもしれませんし、互助制度をしっかり整備する事もできるかもしれません。
いずれにせよ、飼い主さんの意識はまだまだ社会を説得するために充分とはいえないのが現状だと思います。
犬を家族と考える人たち
実際に犬と暮らす人の殆どが、愛犬の事を、ペットとか愛玩動物と呼ぶのを、生理的に避けています。
動物愛護の先進国では、コンパニオンアニマル(伴侶動物)という呼び方を使い、ペット(愛玩動物)よりもっと密接な関係を持ち、自分の人生には必要な存在であるということを主張します。
日本では多くの飼い主さんが自分と共に暮らす動物の事を、「家族」と表現します。
先日、コロナ禍で職を失い、新しい職場の寮に入る事になったご主人が、大切な家族である猫を、保護団体に預けに来るという動画を拝見しました。
一人暮らしの心の支えであった愛猫と別れるのはどれほど辛かったか偲ばれます。
子供が巣立った老夫婦が、まるで自分の本当の子供のように愛犬を可愛がって育てたり、身体的な理由で子供のできない夫婦が、家族として愛犬を育てたり、長年家族として暮らした犬の最期の瞬間を、家族全員で看取ったり……
犬と暮らす人は、犬を「家族」として大切にします。
犬と暮らさない人たちは、それを代替行為であると言ったり、犬と人間は違うのだから飼う事自体が虐待だと揶揄したりします。
私たち、犬と暮らす人間は、暮らさない人たちのその中傷が的外れである事を知っています。
たしかに、中には犬の習性を深く考えず、人間の赤ちゃんのように扱う飼い主さんもいらっしゃいますが、殆どの犬と暮らす人間は、犬として愛犬が自分の家族であると認識しています。
家族の中の犬の位置
犬は犬という種の動物であり、人間ではありません。
しかし、人間が居なければ、また犬という種類の動物は成り立ちません。
犬は人間社会に置いて、どのような位置にいるのでしょうか。
この命題はよく語られる課題ですが、明確に答えられる人は未だに居ないのではないでしょうか。
文字通り、自分たちの子供のように可愛がる夫婦も居ますが、それが犬の幸せとは限りません。
犬は人間ではないのですから。
犬が人間の社会でどうあるべきかになかなか答えが見つからないのは、犬自身が人間社会でどうありたいのかが人間に伝わりにくいからに他なりません。
人間の家族の想いが、一方通行では成り立たないのと同じく、犬を家族と言うならば、その関係も一方通行では成り立たないでしょう。
ところが犬は人間の言語を喋りません。
本当はどう思っているか、人間がわかりやすいように語ってくれる事はありません。
ですから、古くから憶測や誤解が生じやすく、こんなに長く人間の傍に居ながら、未だにその常識は人間の知識の中で覆され続けています。
たった一つ、わかっている事は、犬は人間無しでは存続し得ない動物であるということ。
太古の昔から、人間の絶対に裏切らない友であるということです。
人間と犬の絆
犬と暮らす人と犬と暮らさない人との意識の剥離の差は、驚くほど大きいものがあります。
犬と暮らした経験のない人の見る犬と、犬と暮らす人たちの見る犬は、違う生き物なのではないかと思うほどです。
犬は飼い主ととても強い絆を結びます。
それは犬と暮らした事がないと知り得ない感覚です。
ある犬は、別れた飼い主に会うために気の遠くなるような距離を歩きます。
ある犬は、飼い主を助けるため、自分の命を投げ出す事も厭いません。
全ては、たくさんの愛情を注ぎ、自分を家族の一員として受け入れてくれ、さらに、自分を人生の相棒と認めてくれた飼い主さんのためです。
特別な犬じゃなくても、飼い主さんの方が、愛犬の事を相棒と認めていれば、犬はいつでも飼い主さんとの間に強い絆を結ぼうとするのです。
そして、その関係は一方通行ではなし得ません。
飼い主さんの方も、やはり愛犬を無くてはならない存在だと感じています。
かけがえのない存在であるからこそ、愛犬を亡くした時の悲しみは深く、他人が同情する事ができないのです。
犬は人間と深い絆で結ばれようとする生き物です。
それが生きがいであると言っても過言ではありません。
愛犬にとっては飼い主さんが全てであり、生きる意味なのです。
我々人間はそれを忘れてはいけない。
最高の相棒になりうる犬
太古の昔から、犬は人間の大切な相棒でした。
共に危険と闘い、いっしょに食料を調達し、人間の不足を補い、人間は犬の不足を補って来ました。
犬は、人間の手助けをする事で存続してきた種です。
それは今も変わりません。
昨今の研究では、犬が人間と共に暮らすうちに獲得した、様々な能力がわかってきています。
犬が人間と共に生きる事を自ら選んだのか、人間側が作ってきたのかは、これからの研究課題で、今は予測の域から出ません。
人間の殆どが狩りをしなくなり、農業をするのも一部になっても、犬は未だに人間と共に存続する種で、人間とパートナーになる事を生きる意味とします。
現代では、精神的な疲労を癒やし、趣味の場で共に目的をなし遂げる相棒になったり、時には人間の生活を直接手助けしたりします。
いずれにせよ、犬は人間の相棒であるからこそ犬であり、それが犬という種の一番の特徴です。
ですから犬は人間の相棒になり得ますし、それどころか、人間の相棒ではない犬は、本当の意味で「犬」なのかという疑問さえ生まれてきます。
犬と暮らす人たちは、はっきりと自覚して暮らしていなくても、心のどこかで、その事実を知っています。
そして、犬を人生の最高の相棒として共に生きる人間こそが、犬と暮らす資格のある人間です。
犬が居なければやらなかった事
犬との生活で、我々が与えてもらうものの大きさははかりしれません。
犬のために買った自分の服や、犬のために買った家具家電、犬のために増えた趣味、犬のために増えた友達。
犬と暮らした事がある人は、必ず生活のどこかが犬のために変化します。
マイナス面ももちろんあります。
気軽に旅行に行けなかったり、犬のためにする家事も増えますし、犬のための経費もたくさんかかります。
けれども、それにも増して、犬と暮らす事で起こるプラスの人生の変化は、我々犬好きにとっては、本当に素晴らしいものなのです。
私は、本来ズボラな性格で引きこもり体質なのですが、犬と暮らしていたおかげで、家事をしたり、散歩にでかけたり、服を変えたりする事が苦にならないのです。
胸を張って、まぐろさんの母ちゃんです!と言えるように、ダイエットにも成功しました。
そして、大概、犬のためにはじめた事は、後々、私たち人間の生活を豊かに気持ち良くしてくれるものばかりです。
やがて相棒が天に召される時、その与えられた健康で豊かな生活にとても感謝するのです。
犬が居なければやらなかった事、それは私の人生を豊かにするきっかけをくれました。
そして、自分の事を好きになれました。
私の大好きなまぐろさんが、大好きなのは私ですから。
犬と共に生きるという事
昔は、犬との「共生」は、相利共生だとは思われていなかったかもしれません。
相利共生とは、お互いに利益を得る共生の事です。
ところが、犬との関係は、実は太古の昔から「相利共生」だったという研究が現代の主流です。
生物学的な意味ではそれが事実なのでしょう。
我々、犬と暮らす人間にとって、犬との共生は「共に生きる」という事で、お互いに利益を得るのは当然の事です。
それだけでなく、犬と暮らす人間は、犬と社会的な共生ができると信じています。
その「共生」とは、犬を商品や所有物占有物と見なすのではなく、共に生きるという事です。
人間の勝手な都合で処分される犬が居なくなる事。
今よりももっと高い水準の互助制度や公助制度を整備し、犬と人間の脈々と続く共生関係をもっと高度で成熟したものにする事。
犬と暮らす人たち誰しもがぼんやりと持っている理想の社会だと思います。
その社会を実現するためには、他の誰かにやってもらうではいつまで経っても実現しません。
犬と暮らす我々ひとりひとりが日々の暮らしの中で犬との暮らしを大切に生きていかなければ到底実現するものではありません。
犬との共生社会が少しずつ進んでいる国は、概ね先進国です。
社会的に「共生」という考えが成熟し、整備されている福祉国家は、犬に対しても優しい国です。
犬は家族の一員である
家族のカタチは本当にそれぞれです。
血縁関係イコール家族ではありません。
そして、その家族という単位は人間社会が発展するにつれて多様化されています。
家族のカタチが種を超える事は可能なのではないでしょうか。
犬を犬という種としてその性質や習性に配慮し、家族として取り扱う事はできるのではないでしょうか。
もちろん、人間の子供のように取り扱う事は許されません。
彼らの幸せとはかけ離れている場合が多いからです。
家族という最小単位の社会のルールにおいて、犬の役割を明確化し、家族のルールを「犬のいる家族」としてきちんと定めれば、犬を家族として受け入れる事は可能です。
そして、そういう家族が増えれば、人間の社会も、犬を家族として受け入れる事にもっと積極的になるはずです。
近隣に迷惑をかける家族は、その地域では受け入れられません。
自分たちの家族が、地域に受け入れられるように、家族の中でルールを定め、それに従って毎日を過ごす事が社会に「犬」という種と共生するためのしくみをもたらすのではないでしょうか。
犬は犬として家族の一員です。
まずは、犬と暮らす人たちこそがそれを心に深く刻まなくてはなりません。
我々の愛する犬たちが幸せにその生を全うするという事を、犬と暮らす人たちは一番に考えなければならないのではないでしょうか。
犬には幸せに生きる権利がある
犬には幸せになる権利があります。
生を全うするモノなら誰もが持っている権利です。
ならば、犬の幸せをきちんと考える事が飼い主さんに課せられた義務です。
犬と暮らすと決めて、自分の相棒と出会ったその瞬間から、神様からプレゼントされる幸せな課題とも言えます。
犬の幸せを考える時、我々人間は、人間の幸せと混同しがちですが、彼らは犬なので、犬として幸せでなければなりません。
犬は生まれ落ちたその瞬間から、人間という別の種と共同体を組み、人間と共に生きていく事を運命づけられた生き物です。
ですから、彼らの幸せには人間が不可欠です。
彼らの幸せは人間ナシでは語れません。
そしてその運命のしっぽは、飼い主さんが握っています。
犬はできるだけ長い時間、飼い主さんと居る事が一番の幸せです。
そんな簡単な幸せさえ、人間社会はとても難しくします。
飼い主さんは、愛犬のお留守番中に、できるだけ寂しくないようにと色々考えて、優先順位を間違えてしまう事も多いですが、犬はお留守番など無いほうが良いのです。
ですから、本来ならば、いかにお留守番の時間を減らせるかを飼い主さんは一生懸命に考えてあげなければなりません。
高級なごはんが食べさせてあげられないからと、お金持ちのところに養子に出すのも、犬にとっては幸せではありません。
犬は高級なごはんよりも飼い主さんのくれるごはんのほうが何倍も幸せです。
犬にとっての幸せを、我々は死ぬ気で考えなければなりません。
愛する犬たちを護るために出来る事
犬と暮らす人たちは、我が相棒をどうやったら幸せにできるか、どうやったら守り切れるのかを毎日死ぬほど考えています。
犬と暮らさない人たちには理解しがたく、呆れるほどです。
しかし、まだまだ犬の事を知らない飼い主さんも大勢居ますし、犬を「相棒」と呼ぶ気持ちのピンと来ない飼い主さんもいます。
たいへん勿体ない事なので、一人でも多くの飼い主さんにこの感覚を知って欲しいと思います。
残念ながら日本は犬にとってはまだまだ先進国とは言えません。
我々犬の大好きな人間が、相棒を守り、幸せにしてあげる一番の近道は、日本という国のしくみが、犬と人間の共生を当たり前のように考え、法律の整備やインフラや、それから日本人の感覚を、犬にも優しいものにしていく事です。
そのためには、自分にできることは全てやりつくす覚悟でないといけません。
人間が高齢化すれば、犬にも高齢化が訪れます。
それは犬が人間社会と密接に関係し、人間社会の中で犬として生きているという証拠にもなります。
犬と人間、どちらが先に共生の道を選んだのか分かりません。
それでも犬を人間が自分たちの社会に引き入れた限り、我々人間はその責任を果たさなければならないのではないでしょうか。