社会がうまく機能するためには、それをまとめる優れたリーダーが必要です。
ですが本来リーダーというのは支配者ではありません。
力で屈服させ、恐怖で支配する人の事をリーダーとは呼びません。
群れというのは原始的で根本的な「社会」です。
群れが村になりやがて街になりました。
人間という生き物が群れで暮らしていた時代から、犬は人間の集団の一員でした。
これは色々な人の研究でだんだんと証明されてきた事ですが、犬と向き合って暮らす人は昔から知っている事です。
犬は人間の付属品とかただのペットではなく、生まれた時から、人間の形成する「社会」の一部なのです。
権勢症候群(アルファシンドローム)は無かった
しつけ本を読んだことがあれば一度は目にしたことがあるでしょうし、トレーナーの方の中にも未だにこの言葉を使う方が居て、触れる機会も多いと思います。
権勢症候群。
アルファシンドロームとも言いますね。
これが実は本当は存在しないというのが昨今の研究でわかってきました。
2008年には、この権勢症候群による問題行動についての理論は覆されています。
10年以上も前に、専門家の研究によって権勢症候群は否定されているのです。
人間は、犬のしつけにおいて、問題行動をあるひとつの理論に基づいて、「権勢症候群」と呼んできました。
犬やその祖先と言われているオオカミは、群れ(パック)の中にボス(アルファ)が居て、順位付けがなされているので、犬が自分の事をボスだと勘違いすると、問題行動を起こしてしまう、だから、犬より上に立たないといけないという理論です。
自分をボスだと勘違いした犬の事を「権勢症候群」と呼ぶ事にしたのです。
この理論は、観察手段があまり無かった時代にオオカミの群れから導き出された理論で、GPSやドローンなどの野生動物を観察する手段が飛躍的に発達してから見事に覆され、否定されました。
実際のオオカミの群れでさえ、権力を奮って群れを支配するボスは存在しないという事実がわかって来たのです。
そもそも、生きるか死ぬかの極限状態にあれば、どんな動物でも攻撃的になりますし、それを参考にして家庭犬をしつけるなどナンセンス極まりないことです。
ボスという存在であるから暴力的になるのではなく、厳しい環境で自分が生き残るために暴力的になるのです。
実際に、統率のとれたオオカミの群れには優れたリーダー的な存在は居るのですが、これは今までの常識のように順位付けでトップに立ち、力で全てを解決する支配者ではなく、みんなを導き、時には自分の利益を群れで分け合うようなリーダーであるそうです。
そもそも犬の祖先であるオオカミに、ボスという存在も、順位付けというのも無かったのですから、人間と犬の間に「権勢症候群」というものなどあるはずもないのです。
ボスとリーダーの違い
我々が家庭で共に暮らす犬に必要なのはボスではなくリーダーです。
ボスは支配者でリーダーは指導者です。
そもそも人間界に於いても、ボスとリーダーがごっちゃになり、非常にやりにくい社会になっています。
ボスが居なくてもリーダーが居れば社会は成り立ちますが、ボスだけでリーダーの居ない社会はうまく動きません。
ボスとリーダーがどう違うかというのはたいへん明確であるのですが、この説明が成されることはあまりありません。
しかし、イギリスの高級百貨店「セルフリッジズ」の創業者、ハリー・ゴードン・セルフリッジ氏がこの違いを言語化し、ビジネスにおいてのリーダーシップを説明しました。
Harry Gordon Selfridge - Wikipedia
この説明を読むと、ボスとリーダーの関係がとても「犬ぞり」の仕組みに似ていると思いました。
- ボスは部下を乗りこなし、リーダーはみんなを指導する
- ボスは権威に依存し、リーダーは善意に依存する
- ボスは畏怖を呼び起こし、リーダーは熱意を呼び起こす
- ボスは「私」と言い、リーダーは「我々」と言う
- ボスは失敗の責任をとらせ、リーダーは失敗を粛々と修正する
- ボスはやり方を知っているだけだが、リーダーはやり方を具体的に教える
- ボスは「行け!」と言い、リーダーは「行くよ!」と言う
どうでしょうか?
犬ぞりに乗る人間はボスですが、犬ぞりの先頭に立ち、群れを率いて走っているのは犬のリーダーです。
もしも、犬が人間の集団として成り立つのならば、人間はボスではなくリーダーになるべきです。
犬ぞりはボスが居なくても、しっかりと走る事はできるのですから。
そして人間社会においても、本当に必要とされるのは優れたリーダーなのではないでしょうか?
優れたリーダーになるために
犬と共に生きるのであれば、人間社会で犬が生きていくための最低限のルールを指導するリーダーにならなければなりません。
権威に頼るのではなく、犬に対する善意と犬から引き出される善意に頼り、犬を怖がらせてやらせるのではなく、犬のやる気を引き出し、犬を相棒と呼び共に人生を歩みながら、人間社会を犬が問題なく暮らすためのルールを、根気よく指導するリーダーです。
犬にとってはこれを実行する人こそが優れたリーダーであり、一生を共に幸せに暮らすことができる相棒なのです。
相手に対して思いやりを伴った想像力を持ち、自分を理解し、導いてくれる人には我々人間でさえ「ついて行きたい」と思うことができます。
そこに暴力も、しつけも、必要ありません。
しつけのためといって暴力をふるうのは、ただ自分が相手にこうなって欲しいとか自分がこうしたいという欲求をぶつけている時ではありませんか?
相手が何か問題行動をとった場合、感情的になるのは致し方ないことかもしれませんが、それを相手にぶつけてもなんの解決にもなりません。
相手がどうしたいのか?
どういった理由でそういう行動を取ったのか?それを改善するためにはどうすれば良いのか?
一瞬立ち止まってそれを考える時、暴力などなんの意味もない事に気づくのです。
これは子育てと同様で、話し合いでわからないのだから愛情をもって暴力をふるうのは容認されるという言い方でたびたび否定される意見なのですが、話し合いをするということ自体がナンセンスな話です。
子供は子供ですし、犬は犬です。
大人の良識ある我々の話がわからないのは当たり前です。
安心できるリーダーのお願いならば聞こうという気になります。
そうやって相棒との良い関係が築かれていくのです。
犬が必要としているのはどんなリーダーか
自分の事を理解し、昨日よりも今日のほうがより良い生き方ができた!という方向に導いてくれる人には、我々人間でさえもついて行きたいと思うものですよね。
犬が必要としているのも、そういったリーダーであり、犬と暮らす事を選択したとき、そういうリーダーを目指すことが、犬に最高に幸せな人生を送らせることのできる人間になるための重要事項です。
犬が求めているのは、共に毎日をより幸せに過ごすことのできる相棒であり、人間社会でお互いにより幸せに生きていく術を指導してくれる人間です。
人間社会で優れたリーダーとされるようなリーダーを犬も求めているのです。